※神余くんの世界史あいらんど…河合塾世界史講師「神余秀樹」先生(吉崎の恩師)の“ちょっとdeepな”世界史をご紹介します。
★原爆を投下するまで日本を降伏させるな!
――――ポツダム宣言・第12条の改竄の意図について
1945年7月26日、もはや敗戦は時間の問題となった日本に無条件降伏を勧告するポツダム宣言が突きつけられました。もしも日本の首脳部がこれを即座に受諾し、この7月末の時点で降伏していたならば、広島(8月6日)・長崎(8月9日)の悲劇は避けられたでしょう。
しかし当時、彼らが最後まで気にかけたのは「国体の護持」つまり「天皇制の存続」でした。これが保証されるなら即時に受諾しただろうと言われます。しかしポツダム宣言の文面には、なぜか天皇制についてははっきりとは書かれていません。結局、日本政府が躊躇する間に原爆は投下されたわけです。
怖い話はここからです。
実はポツダム宣言は、その原案の段階では、「天皇制の存続は保証する。だから早く降伏せよ」という内容でした(原案・第12条「現在の皇統における立憲君主制」)。ところが、最終的にはこの部分が削除されて日本には通告されたわけです。「天皇制の存続さえ保証してやればすぐに日本は降伏するはずだから」と、削除に反対する陸軍長官スティムソンらの主張を退けて。
なぜ削除されたのか。
その中心にいたとされる国務長官バーンズの真意について、考えられるのは次の点です。
・天皇制の存続など論外とする世論を考慮した。(実際、当時の米国世論の7割が「天皇を戦争犯罪人として処罰すべき」、特にその3割は「処刑せよ」でした。)
・日本が即座には受け入れられないような内容にすることで終結を遅らせ、原爆を投下するまでの時間稼ぎをした。(原爆実験の成功は7月16日。実戦配備に要する時間を考えれば7月中に日本が降伏しては困るという点で。)
現在、アメリカ人の大部分は、「原爆という大量殺戮兵器の使用も戦争の早期終結のためには仕方なかった」。また、「降伏を勧告したのに、それを日本が受諾しなかったからやむをえず投下した」と考えています。
しかし、上記の第2点を考えると議論の前提はまったく変わってきます。
「原爆が戦争を早く終わらせた」のではなく「原爆を投下するまでは日本の降伏を遅らせる狙いがあった」ということになるからです。
荒井信一氏は、その著『原爆投下への道』(東大出版会、1985)の中で
・トルーマン大統領は、ポツダム宣言を発する前日の25日に、すでに原爆投下作戦の最終指令を発していた。
・ポツダム宣言の内容について、日本側は受諾しないであろうという確信を持っていた。と、指摘しています。※
仮に、トルーマン政権がとにかく開発したばかりの原爆を使うことを前提でことに対処したとすれば、その目的は何か。一つは、人体実験。もう一つは、戦後体制構築に向けてのデモンストレーション。特に対ソ戦略上重要なカードということでしょう。
ただ、アメリカ政府高官の中にも、人道上の見地から原爆使用には反対していた人が数多くいたことは、付記しておきます。
※歴史学者М・シャーウィンによれば、20億ドルを投じたマンハッタン計画の成果を議会に示すためにも実戦で使用する必要があった。投下対象は、日本。事前の警告はせず、無警告投下をすることで日本に心理的衝撃を与えること。これらは5月末の段階で決定済みであったという。(ドイツは5月7日に降伏。)
(以上、文責:神余秀樹)
〈神余秀樹先生プロフィール〉
1959年、愛媛県に生まれる。広島大学文学部史学科卒。民間企業勤務などを経て受験屋業界の“情報職人”となる。あふれる情報の山に隠れた“底の堅い動き”。“離れて見ればよく見える”。さらに“常識から疑え”。そんな点も世界史のすごみかと思う。
目標は「難しいことを易しく、易しいことを深く、深いことを面白く」。学校法人河合塾世界史講師。
【著書】
『神余のパノラマ世界史(上・下)』(学研プラス、2010初版・2015改訂版)
『世界史×文化史集中講義12』(旺文社、2009)
『超基礎・神余秀樹の世界史教室』(旺文社、2018)